青山学院大学国際政治経済学部
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『河童』 芥川龍之介

『河童』芥川龍之介

今まで触れた芥川作品と言ったら、『蜘蛛の糸』や『トロッコ』などの作品だったので、
この小説を読んで、「こんなのも芥川作品なんだ」とずいぶん驚きました。
私的には、本自体はとても面白く読むことができました。
そして、発表準備にしても、調べれば調べるほど奥が深く、大変面白かったです。


発表では、兎にも角にも、「人様の作品評論を読んではだめだ」ということが、よくわかった次第です……。
ゼミで学ぶ、本物の「芸術」というものを、はたして、どれだけの読者が芥川作品を通して知ることができるのでしょう。
少なくとも私は、指摘されなければ、気づくことができませんでした。
芥川自身が絶対の自信をもつ、芸術の、その大きさをほんの少しだけ知って(知った気になって?)、呆然とする次第です。

マルソ

投稿者 学生
2009年07月12日20:59 [発表者 コメント]


「高野聖」発表

こんにちは。
先生のいない間にこっそり発表をした飯田です。


先日の「高野聖」の発表ですが。この作品を楽しむために、偽を真にするということについて一考察をえらそうに語ってみました。
僕の考察は、リアリティーのない虚構です。

まー色んなかたの評論をあげてみましたが、消化不良感がありましてよくわからないところもあったと思います。反省の限りです。はい。

まー発表によって、皆様がより「高野聖」を楽しめるようになっていればこれ幸い。
でも僕は樋口一葉派です。たけくらべー

投稿者 学生
2009年07月04日14:24 [発表者 コメント] | コメント (0) | トラックバック


曖昧なのに真を突く分類法

レストランで頼んだスープに虫が入っていたら?

イギリス人は皮肉を言って店を出る。
アメリカ人は裁判に持ち込む。
ロシア人は酔っ払って気付かない。
中国人は気にせず食べる。
日本人は周りを見回し、自分の皿だけに入っていることを確認し、そっとボーイを呼ぶ。
韓国人は日本人のせいだと叫び、日の丸を燃やす。


これは各国の国民性を表したあるブラックジョークである。


不思議な事に、人の出身国により彼の特徴を言い表すことができる。例えば、
フランス人は理屈っぽい。
恋愛とは理屈では理解し難い。
だからこそ、フランス映画に恋愛ものが多い。

だが、ここで述べられている国民性は一側面から見たただの表徴に過ぎない。皮肉を言わないイギリス人も、裁判を嫌うアメリカ人も、アルコールを拒否するロシア人もいるはずである。日本人もしかり。

しかし「国民性」という漠然とした枠組みは全くの信憑性に欠けるものかと問うと、そうでもないだろう。国民性が述べられるということは、誰かがそう受け取っているわけで、ある行動がそのように受け取られた以上、本人の意思に関わらず「国民性」は形成される。不思議なことに、その国民達には傍から見ると共通点が垣間見られる。だからこそ、本人の自覚の有無に関わらず、その「国民性」はどことなく的を射ているのだ。


そんな「国民性」の一意見を見出すことができるのは遠藤周作の作品である。彼の生涯のテーマとなったのはキリスト教であり、遠藤氏のキリスト教や日本人に対する問題意識は深い。多くの作品を通じて、彼はこの問題に取り組んだのだとわたしは解釈した。キリスト教者として日本人として生活する彼こそがある意味で「中庸」な人であったのだ。特に、遠藤氏の『沈黙』という作品は「手放したくない娘」と本人が述べるように、読むと彼の問題意識が全て詰まっているように感じる。

日本人にキリスト教は根付くのか?
裏切り者のユダの心理とは?
イエスはユダに対しどう感じていたのか?
神は一体なぜ沈黙しているのか?


・・・是非作品を実際に読んでみてください。


今回のわたしの発表は遠藤周作の日本人観を介してわたし自身の日本人観を洗い直すものに仕上がった。あくまでも自由課題という形で発表したので、発表の場が独壇場と化してしまったのを反省すると同時に仕方ないと諦めの境地に至りもする。補足も兼ね、レポートにて述べきれなかった部分を語ろうと思う。


それにしても人間というものは不可解で不幸せである。
しかし、この娑婆苦の充ち満ちた世界で生きる人間というものほど幸せ者もいないだろう。
プラトニック・スゥイサイドができる人間は、神に同情するほど強くなれるのだ。


芥川をむさぼり読む長老

投稿者 学生
2009年07月04日00:48 [発表者 コメント] | コメント (0) | トラックバック


「美」とか「あれ」とか

言葉の定義とは難しいものであり、同時に無意味なものでもあります。
例えば「炭酸」と聞いて思いつくもの、「ビール」「コーラ」「チョーク」「トニック」「ジンジャーエール」。
思いつく可能性のあるものはさまざまです。
言葉とはなんと不確定なものでしょうか。
ですが人間である以上、言葉を使わずして何かを伝えることはできません。
できると言えばできますが、便宜上、確実な定義を定めることができない「言葉」を使うのが一番効率がいいのです。


芸術関係の文献を読むと「美」だとか「美しい」だとか出てきます。
普通、「美しい」と言えば「空が美しい」「形が美しい」「色が美しい」と視覚的な美しさを指します。
しかし、この芸術関係の文献においての「美しい」にはまた違う意味を示す場合があるのです。

その「美」とは何かと言えば「「あれ」が発する薫り」、という曖昧な定義。
こればかりは本を読んで当人が感じなくてはどうしようもない。
言葉で説明しようとすると野暮と認定されます。

そのような野暮に認定された発表でした。

ですが、わたしがこの発表を通じて最もしたかったことは「資料をあげる」ことでした。

頭の悪いわたしはゼミに暫く在籍していたにもかかわらず、ゼミの内容を理解できずにいました。
今となってはわかりますが。(厳密に言えば「解るべきことが判る」。)
当時を振り返り思うのは、「何を判ればゼミの内容が解ることになるか」を知りたかったということ。
無目的に右往左往することほど不安なことはありません。
そしてゼミを始めた後輩たちにとっても不安であろう、そう決めつけました。

不安な中で、手渡した資料が一種の指標のような役目を果たしてくれるのではないか、
そう考えました。
手渡した資料を、いつ使われるかわからない指標として手元に置いていただきたかったのです。
たとえ現時点で内容を理解できなくても、1年後、2年後、このゼミをこなしてある程度時間が経ったとき、またこの資料を見て、その時に資料に載せた言葉がすんなりと実感と共に心に届くようになっていたならば、先輩としてそれほど嬉しいことはありません。


最終的には個々人の実感や判断に委ねざるをえないこの感覚に対し、
わたしができることはこれだけです。


『いま彼らが両足を踏ん張っているその地から、天高く跳びあがらせ、より広い世界があることを見てもらいたい。そして無数にある世界の存在を認めた上で、その中から彼らが生きたいと望む世界を選択してもらいたい。』

それがわたしの願いです。


ぞしま

投稿者 学生
2009年05月01日01:50 [発表者 コメント] | コメント (0) | トラックバック


E.ギンズブルグ『明るい夜 暗い昼』

今回の課題は以前のソルジェニーツィンの『イワンデニソビッチの一日』と同系譜のいわゆる「ラーゲリ文学」の著書です。1930年代中盤、スターリンによる粛清が勢いを増す中で共産党幹部である夫を持つ妻ギンズブルグは捕まってしまいます。その後長い間収容所に囚われの身となりながら、その中で起こったことを描くといった話です。

見所はソルジェニーツィンの前掲書とは違い、感情が溢れているところです。『イワン・デニソビッチの一日』には感情があらわになることはない、それは最後の文章の淡々とした雰囲気に代表されている通りです。しかし『明るい夜 暗い昼』にはラーゲリの、無罪の自分を責める職員に対しての憤りや芸術に対する恍惚とした感情があらわになっている。ここで注目すべきはもうひとつの名著である『収容所群島』との違いである。これはあまり芸術的ではない、と先生が口にしていたが実際少し読んでみると言わんとしていることがわかった気がした。こちらは同じソルジェニーツィンの作品でも『イワン・デニソビッチの一日』よりエモーショナルな雰囲気を出している。しかしながらそれは体制批判に終始していて名著に見られる人間の本質に触れるような記載はない。この内容は大変貴重なものなのであろうが、芸術として心の吟線に触れるのか否かといわれると疑問を呈する。

話を戻すが、前述した通り『明るい夜 暗い昼』には感情が溢れている。本書の中で「清純な精神」が生きている。整理すると、『イワン・デニソビッチの一日』はラーゲリ文学の旗手として、なおかつ「あえて」感情的な面を記述しないという手法により内容に迫真性をもたらす。その迫力が作品に芸術性をもたらす。次に『明るい夜 暗い昼』は上述した通りである。感情の隆起は時に形而上の世界にも接し、読者の心の吟線に触れるという意味で芸術性があるのではないのだろうか。また『収容所群島』であるが上記の二冊を足して二で割りそこなってしまったとでも言えようか、リアリズムに徹しきれていないしヒューマニズムにも欠ける。

『明るい夜 暗い昼』を他のラーゲリ文学の名著と比較してみるとその特徴が分かりより楽しめるのではないだろうか。

投稿者 学生
2008年10月14日23:55 [発表者 コメント] | コメント (1) | トラックバック


発表後記 モーゲンソー『国際政治』

国際政治学科4年 宇田川

テーマは政治的リアリズム再考、発表で特に取り上げた本はジョセフ・ナイ『ソフトパワー』、中江兆民『三酔人経綸問答』、ホッブス『リバイアサン』、ロック『統治論』、カント『永遠平和のために』など。荀子と孟子にまではあまり手が回らなかった。

もう少し上手にしゃべれないものか、と思う。資料を作ったところで満足し、実際に発表しているところをイメージしなかったのが原因か。あの発表のせいでゼミ志望を変更されないことを願う。

発表の主題は大きく2+1つ

①リアリズム、リベラリズムと言ってもそうしたカテゴリーは後付けかつ相対的なもので、純粋に不信、純粋に理想主義ということは、深い考察をするような人であればおよそありえない。つまり深く考え、よりよく現実を分析するということは、それだけ複雑で中庸なものに近づいていってしまいやすいということ。

②そうした中でリアリズム・リベラリズムを考え直して思ったこと。
少なくともモーゲンソーのスタイルとしてのリアリズムというのは、その名の通り現実に依拠したもので、絶えず世界イメージを更新しつつ戻ってくるものであり、理論と現実がかみ合わないのは理論が間違っているからだ、と考える立場。
リベラリズムは何か理想とすべき状態を持っていてそれに向かって自分を含めて世界を変革することを目指すもので、理論と現実がかみ合わないのは現実が不完全だからだ、と考える立場。

(③)このように思考方法の問題として考えると、リアリズムとリベラリズムはそれぞれ、経験論的な考え方と観念(イデア)論的な考え方、村上泰亮『反古典の政治経済学』の言い方では解釈学的反省と超越論的反省との対比に似たものがあるのではないかということ。

以上の3つである。

投稿者 学生
2008年10月14日23:54 [発表者 コメント] | コメント (0)


谷崎潤一郎の香りなき美文にみる盲人への憧れと性的倒錯

発表で何をお話したか整理しようと思い、この場を借りておさらいさせていただきます。
谷崎潤一郎について「氏の特徴がよく表れている」という『春琴抄』と『陰翳礼讃』を元に発表させていただきました。今回は久しぶりで最後の文化部門ということと、先祖への興味が相俟って発表の準備を楽しませていただきました。
私たちゼミ生にとって、谷崎は「思想がない」、「香りがない」、「詩的精神がない」という小林秀雄や三島由紀夫や芥川龍之介による前評判に振り回されてもいましたが、地上の人間には正直その如何を嗅ぎわけることなどできず、ただただ氏の美文に魅せられてしまいました。その文体は三島にいわせるならば「上等なとろりとしたお酒の味わい」があるそうですが、ゼミ生の間でもその「艶っぽさ」や「なめらかさ」を共感するところがありました。氏の文体は泉鏡花の世界に類し、かたや志賀直哉や島崎藤村らの楷書的あるいは自然主義といわれるジャンルとは異なる様相を呈しているのではないでしょうか。この「なめらかさ」というのは氏が一種の憧れの念を抱いていた盲人に表象されていきます。常人の開いた目よりも春琴の閉じた瞼を「これでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じ」としてその外見的な艶やかさを賛美しています。こうしたイメージはH・G・ウェルズの『盲人国』にも次のように表れてきます。「(顔立ちのはっきりした女性をさして)彼女は盲人の世界ではあまり重んじられていなかった。というのは、彼女は輪郭のはっきりした顔立ちをしていて、盲人たちにとって女性美の理想であるあの快い艶々しい滑らかさがなかったからである」としています。洋の東西を問わずに見られる盲人賛歌は、こうして質感のみならずその欠落した感覚ゆえの才能への憧れにも表れていきます。谷崎の『盲目物語』では「ぜんたいめしいと申すものは、ひといちばいかんのうよいものでござります。――眼あきよりよく勝手をそらんじておりまして、まさかの時はねずみより自由にはしれます」と表現され、ウェルズは「彼らは12歩離れた人のちょっとした身振りでさえ、耳にし判断することができた」、というように盲人は研ぎ澄まされた感性の持ち主として描かれるのであります。また寺山修司の『盲人書簡』でも盲目あるいは闇が感性を刺激するものとして現出します。というように、見えないものに対してクリエイティビティを抱く彼らでありますが、谷崎においては性的倒錯がその根底にあるともいえるのではないでしょうか。たとえば『陰翳礼讃』における次のような記述、「いくら美人の玉のは肌でも、おへそや足を人前へ出しては失礼であると同じように、ああむき出しに明るくするのはあまりといえば無び千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる」、というのは彼のフェティシズムの表れとみえましょう。このような想像力をかきたてるようなイメージというものを三島は「文学からわれわれの受けるエロティックな感動は、いちおう頭脳を理性を通したもので、本質上観念的なものでありますから、文章からわれわれが直接の性感動を受けるというのではなく、観念的な性の刺激をうけるわけであります」として観念によって性的満足を覚えることについて言及しています。谷崎は『春~』『陰~』のみならず他作品の中にもさまざまな性的傾向、たとえば『刺青』にみるマゾヒズムとサディズム、『鍵』や『瘋癲老人日記』における老人性愛など描き分けているようにも思えました。そして最後に、谷崎の『陰翳礼讃』とロラン・バルトの『表徴の帝国』における日本の文化事象の描き方に関する差異を磯崎新さんの論稿から考えてみました。谷崎が生涯追い求めていたといわれている「日本的」なもの、というのとバルト的な視点で眺めた「日本的」なものとはまるで違ったようにも見えながら、あるがままの表れとしては同じであって、もっというならテクストとしての美しさというのも共通していたのではないでしょうか。  とまた手におえない相手をひっぱりだしてきて勝手な解釈をしてしまいました。もともと解釈というのは勝手なものですかね。
marcos

投稿者 学生
2008年10月10日02:23 [発表者 コメント] | コメント (0)


『ハムレット』『リア王』『オセロー』

国際政治学科4年 遠藤

今回はシェイクスピアの4大悲劇の中から3つが課題になりました。

シェイクスピアは世界の知識人の間では常識として欠かせないものでありますが、日本人の我々と同世代の若者には縁遠いものであるようで、昨日後輩に聞いたらみんな読んでなかった(笑)

でも、いいんですよ。これから読めばね♪

発表をする上で困ったことがありました。それはどの作品も難しいということ。
私にはこれらの作品をどう料理すればよいか皆目、検討がつきませんでした。

私は3作とも福田恒存訳を読みまして、彼の才能に非常に感動したわけです。なんたって、彼の解説はそれはそれはレヴェルが高くて、私にはよくわからないくらいでしたから。

よって今回は無理に体裁を整えた無理なシェイクスピア論を自分でやるより、偉大な福田氏に寄りかからせてもらって、自分の身丈にあった発表をしようと試みました。

よって発表は

①シェイクスピアは難しい
②イギリス人のユーモア
③福田恒存による超マクベス

の三本柱で、もう、自分楽しんじゃえ!という不親切な内容であったように思います。

私が特に力を入れたのが、③の福田による超マクベスです。

個人的に一番好きな『マクベス』を彼は『ハムレット』と比較して批判しております。
と、ここまでは誰でも一流の批評家ならできることですが、彼はそれを基に『明智光秀』という演劇を自ら書き上げたのです。

極めて個人的な感想をいえば、短い筋ではありますが、福田の『マクベス』論を読んだあとだと、この作品はその弱点を補い、福田の言うハムレット的高貴さを兼ね備えた面白い作品に仕上がっているように感じました。批評を述べるのは容易ですが、そこから新たに魅力的な作品を作り上げた福田の才能には舌を巻くばかりです。
発表は彼のすごさを私が熱っぽく語って終わりという独りよがりなものになってしまい、みなさんには再び申し訳ないです。

先生がよく言うように、名作は読む年齢によって理解度や印象がまったく異なってくるものです。シェイクスピアもそういった作品に違いありません。

今回、課題にならなかった彼の作品も近々全部読んでやろう、と思う今日この頃です。

投稿者 学生
2008年10月01日13:05 [発表者 コメント] | コメント (0) | トラックバック


強気=得?

吉岡昭 『ポーツマスの旗』 新潮社
本書は日本の明治期の外務官僚であった小村寿太郎について、
特に日露戦争後のポーツマス条約締結を中心に描かれている。

『外交』や『帝国の興亡』を既に読んだ4年にとっては、外交戦略のケーススタディとして。『ある明治人の記録』を読んだ3年生にとっては、歴史認識の一部として読まれたのではないでしょうか。

Oさんも言ってたのですが、やはり政治に少し足を浸っている状態だと「外交とはなにか、戦争とはなにか、国家とはなにか、世論とはなにか」という点に思考が傾くと思います。しかし、今回の発表は、わたしの手腕が足りず、ポーツマス条約までの歴史に関してを中心にしました。

ただ、歴史を知った上で読むと文章の色が鮮やかになると思うんですよ。やっぱり、外交というさまざまな国が絡んでくる場で、それぞれの国の立場を知ると知らないとでは、見えてくるものがまた違ってくると思うのです。
(と、自分の発表をフォローしてます)

小村は交渉するに当たって「強気」にでました。
しかし、ただ強気なだけではどうにもなりません。
相手を知った上で、強気にでること
これこそが交渉において、外交において、はたまた人生において、勝者であるための技かもしれません。


いやぁ、寿太郎かっこいいっすよ。


わたし、寿太郎みたいな強気な人が好きです^^

~小村の強気エピソード~
小村が巨漢である李鴻章と対面した際の話です。李が小村にこのように言った。
「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは閣下のように皆小そうございますか」

背の低さを揶揄されたのに対し、小村はこう返した。
「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国ではそのような者を『でくのぼう』などと言い、大事を託さぬ事になっているのでございます」


~デニソンの意地エピソード~
「私は日本人の書いた英語を直せといわれても、とても直せない。英語は正しいかどうかよりも、イギリス人とかアメリカ人とかの身になって、その考えで書かなければ人に感動を与えるものではない」
と述べていたとか。

ちなみに彼は、ルーズベルトに「君はアメリカ人なのか、日本人なのか」とひやかされるほど日本人らしく行動したそう。

投稿者 学生
2008年07月18日23:49 [発表者 コメント] | コメント (2) | トラックバック


発表後記 『帝国の興亡』下巻

担当はドミニク・リーベン『帝国の興亡』下巻でした。

発表の目的は
① 結局「帝国」ってなんだったのかそ明らかにし(明確な定義づけは無意味であるとリーベン氏が指摘していることを一応考慮に入れつつ)
② 特にアメリカやロシアについてのいわゆる「帝国」論を検討する
というものでした。そのつもりで発表しました。

言い訳というのは特にありません。所々言いそびれたものはありますが、時間もたくさんいただけたことですし、不完全燃焼の感覚はないです。

ただ、「帝国」がどのように捉えられようと、またアメリカやロシアが「帝国」的であろうとそうでなかろうと「だから何」という問いには答えることの出来ない発表だったと思います。その点で役に立つ発表だったとは言えないでしょう。
発表した内容と最後に感想として述べた歴史認識と物自体についての話とではなんとなく飛躍してしまった感じがします。役に立つ発表って何でしょう、それ以前に役に立つって何でしょう。

あともう少し話題ふればよかったかな、と思います。


"pessimist" 追記あります。


追記:
ちなみに今日の発表で参考文献として用いた中村逸郎『虚栄の帝国 ロシア』、中津孝司『ロシア世界を読む』の袴田先生の書評見つけました。以下引用(日本経済新聞、2008年1月13日日曜日)

「中村逸郎著『虚栄の帝国 ロシア』は、旧ソ連諸国からロシアに出稼ぎに来て不法に就労している労働者が「ロシア帝国」から収奪される悲惨な状況を克明に描いている。著者は学者であるが、対象に長期間密着して探る手法を得意とし、ジャーナリスト以上に生々しい実体報告である。ロシアは昔から法治国家ではないが、本書を読むと、法的な建前と実社会がいかに乖離しているかを知ることができる。中津孝司著『ロシア世界を読む』は、コソボ、バルカン問題などが面白く、歯切れの良さが売り。」

投稿者 学生
2008年07月16日01:18 [発表者 コメント] | コメント (3)


高橋敏著 『江戸の訴訟』

ここは読みやすい岩波書店の本書の紹介を引用させていただきます。

高橋敏著 『江戸の訴訟』
「嘉永2年(1849),とある村で1人の無宿人が殺された.勘定奉行までが乗り出す大事件に巻き込まれ,裁判に奔走する村名主.その活躍を通して見える幕末期江戸の姿とは? 暗躍する用人たち,官官接待の実際など,名主が残した日記や多くの周辺資料を駆使して,当時の社会の仕組みや,その中でうごめく人々の様態を活写する.」(岩波書店)

率直な感想は「なんて読みこみづらい」というものでした。星5つ中2くらいです(笑)しかしそれは私が本書に一方的な文学性みたいなものを求めていたからです。まさかの叙述、というか研究みたいな内容だったということで上述の評価を下したのです。

それはさておき、一般的には「厳しい」と語られていた江戸時代の生活というのは現代と同じ、いやそれ以上に「ホンネとタテマエ」の世界です。行方不明な罪人と会っている家族、外泊しちゃいけないのに「朝帰り」しまくっていたり、持ち出しNGの「公事方御定書」をどこかから借りて写本している吟右衛門。そもそも当事者でもないのにわざわざ江戸に出向かされ、判決後に大金を払わされても「しかるべき」とでも考えている所などにおもしろさを感じました。

現代に生きる我々だって信号無視したり、未成年の時に酒を飲んだり(おっと!!)しているわけです。こんなことを書くとお咎めを食らいそうですが、お咎めを食らわす側とて例えば神社の初詣で神社の方に「無礼講だ~」と、またはひなまつりの季節におばあちゃんにで「甘酒でも飲みんしゃい~」と言われ飲んだ経験はない!と言い切れるのであろうか。おっとそもそも彼らだって不正をしているではないか!

巨人軍の二岡選手とタレントの山本モナ氏の話題でメディアは盛り上がってますが、同じことを江戸時代でしても山本モナ氏は私の「妾(正妻のほかに養って愛する女)」である、とでも二岡選手が言えばなんの沙汰もないでしょう。時代や地域によって価値観は変わります。人気のO教授の言う「我々は色眼鏡を通してモノを見ている」 という事実を認識し、自分の中で事象を整理し情報を取捨選択する、という作業が必要なのです。例えば「十字軍」の存在について、キリスト教徒から見れば味方、イスラム教徒から見れば敵と言えますが、それはその時代に生きた全ての人においてそう言えるとは限りません。共存しちゃった人達もいたようです。

本書は現代から過去の生活を文字を通して投影して我々にリアリティのある形で提示しています。それは退屈でもあり緻密でもあり、おもしろくもあり、強引でもあり・・・、様々な形でもって見せてくれます。

りとぅんばい まっすー

投稿者 学生
2008年07月13日14:44 [発表者 コメント] | コメント (2) | トラックバック


石光真人著 『ある明治人の記録』

こんにちわ。気付いたら7月でした、発表から10日くらい経ってしまいました。さて!

本書は会津藩の武士の家庭に生まれた柴五郎の「遺書、回顧録」です。話は彼の幼少時代に起きた戊辰戦争~士官学校に入学するまで、また老年期について書かれております。見所は「会津藩側からの目線」。美化されがちな(これもまた私の主観ですが)幕末~明治期の空気を「敗者側」から感じさせてくれます。それは時代をリードした薩摩藩への嫌悪感であり、会津人として、武家の出身として一貫し後に「武士道」と言われた「信念」を貫いた生き方であり、表象の歴史には出てこない様々な出来事の連続であり、そうした要素が本書を通じて現代を生きる我々に忘れ去られた「信」、または「愛国心」の存在を提示してくれます。

とまあこんな感じでしょうか。本書を通じて分かったことは「至極自伝的な内容のものから歴史の裏側を垣間見ることが出来る」、ということです。「歴史は未来へ可能性を託している」といったことをE.H.カーは『歴史とは何か』で述べてましたが、こうした本が現代に存在し、誰かが読むことで「歴史の再構築」がなされうる、つまり歴史的事実(史実)の見直しという行為が行われうるのです。

「痴漢をした」という判決が出ても、「洋風ハンバーグを頼んだ」と客が言っても、真実を知るのは当事者のみです(笑)優位な者は「正統性」を持つということを意識して歴史を知るという作業が我々には必要なようです。


音楽的おまけ。
黒人嫌いの白人が、Rockを好きならばそれは大バカというものです。RockのルーツはBlues,Jazz,Gospel,Country musicであり、読んで字の如くその多くの要素は「黒人側」の伝統です。それを意識せずに黒人の存在を卑下するRock好きな白人がいるようであれば、「Rockを聴くな~!」と「黒人ばりのシャウト」で言ってあげたいものです。

りとぅんばい まっすー

投稿者 学生
2008年07月13日14:02 [発表者 コメント] | コメント (2) | トラックバック


帝国に飲まれて

こんにちは。
帝国の興亡・上を発表した野暮なやつです。
自分で大まかな内容、帝国の定義を定めない理由や帝国の多様性といったところにフォーカスするという言い訳を作って細かいところをつめてなかった、という点がどうしようもない感じでした。
特に法家思想と儒家思想とのところをつめてなくてごめんなさい。
あと、ローマ帝国が何年ころのものだったかという基礎的なところも知らなくてごめんなさい。
ただ、今回の発表の中で若干混沌としながらも3年生がいろいろ発言してくれたことはうれしかった。やっぱつっこみがない発表はしていて面白くないしね。

あらためて、発表の概要を書くと、
帝国の興亡・上では、帝国の多様性を述べ、下巻で帝国の効用を述べて、
上下合わして今までの帝国論の見直しを図ろうというものだと思います。
その中で上巻ではさまざまな帝国(ハプスブルク、ローマ、中国、ロシア)
などの成り立ちや性格を比較しながら全体像をつかむというものです。
その中で帝国の定義が定められていないため、ただただ帝国と思われる国家の紹介、のような雰囲気をかもしだしていますが、その中でどういった問題意識で読むかという前提条件が非常に重要になっているかと思います。
というわけで今度は下巻ですね。
精進します。

投稿者 学生
2008年07月12日12:41 [発表者 コメント] | コメント (1) | トラックバック


夜明け前

こんにちは。今回、島崎藤村著「夜明け前」の発表を担当させていただいた者です。この「夜明け前」という作品は、すごく簡単に言ってしまえばなのですが、幕末から明治までの時代を青山半蔵という人物を中心に書かれたものです。この本の中では、当時の地方の生活や、時代の変わり目における人々の心理なども書かれており、教科書とはまた違った角度から、幕末から明治までを捉えられると思います。ここ最近のゼミでは、歴史ものの課題が出ていますが、今まで教科書で学んでいた歴史とはいい意味で違っているなと思わされました。というのも今回の「夜明け前」でもここ最近の課題本でも、読んでみるとある時代を歴史の教科書的な視点から離れて、新たな視点から時代を捉える事が出来、歴史認識の多様性に気付かされるからです。少し話がずれましたが、島崎藤村著「夜明け前」は冊数も多いですが、考えさせられることも多く、一読の価値のある作品です。

投稿者 学生
2008年07月10日15:04 [発表者 コメント] | コメント (2) | トラックバック


本には手綱をつけましょう

H.A.キッシンジャー著/岡崎氏訳の『外交』下巻の発表を担当させていただいた。内容をひとことでいえるわけはないが強いていえば「冷戦」である。鞄が壊れるほど分厚い『外交』を一週間の準備と一時間の発表で網羅できるはずがない。で大切なことは「君は何が言いたいの?」という問いに自分の言葉で答えることなわけであり、参考文献とはその言い分を裏付けるためにあるわけだ。本に遊ばれてはもともこもない。火星人もいなければ人類共通の敵もいない。そして真理省も愛情省も封じ込められてしまったようだ。

※ここでの参考文献
H・G・ウェルズ『宇宙戦争』
J・オーウェル『1984年』
J・K・ケナン『アメリカ外交50年』

投稿者 学生
2008年07月03日23:47 [発表者 コメント] | コメント (2)


発表の反省+就活(もどき)日記

H.A.キッシンジャー著/岡崎氏訳の『外交』上巻末部より、「独ソ不可侵条約」辺りを発表させていただきました。
沢山言い訳をして良いということで。

まず発表の日が二週間延期になったこともあり、内容忘れ気味でした。発表中事実関係が混乱しました。すみません、すみません。本来ならば発表まで時間が出来たならもっとクオリティーを高めよう、と思うべきだけれど……いえ、思ってはいたんですが結局レ、レポートが(ぶつぶつ)
「あと一週間伸びたら発表を再構築しよう」というのは、嘘ですね。「あと一日あったらもっと出来たのに」なんてことも、嘘。最初の週に延期を想定した上で作ったレジュメと資料(だらだらと書き散らしたメモをきちんとしたアウトラインにし、資料の引用箇所をもう少し洗練させたかった…)は、一週間後も二週間後も同じでした。むしろ記憶が薄れていきました。なので延期した発表に当たって資料を刷りなおしていたO氏、非常に見習いたいです。というか私のは怒られるレベル。
言いたかったことの10分の1も言えなかったような感覚は毎度のことですが、そろそろ半分は言えたと思えるようになりたい。
…ここまで書いていいんだろうか

『外交』を読んで一番感じたのは、やはり国際政治の場におけるリアリスト的な物の見方の重要性です。
私が今受けている会社の社長さんは、めちゃくちゃリアリストなんですよ。少なくともゼミ生は誰もが感じると思います。会社説明会の時にお話を聞いていて世間を冷めた目で見てるなーと思ったし、例えば「あの会社は見た感じ健康そうだけど近い内に駄目になる」と言っていて実際にそうなったケースもあるようでして。おそらくそれは決して「予言」とか「予想」ではなく、見る目で見たら「当然そうなる」というようなことなんでしょうね。その延長線上ですが、副社長さん相手の二次面接の際に、私は「社長さんのリアリスティックな所に惚れました。冷めているのがいい。恋愛などと違って社会の場では、何かの判断を下す場合に情念だけではどうにもならなくて、冷静な考え方の方が云々…」(受け売りは許してくださいね笑)みたいな事言ったんですね。すると私としては以外なことに、「社長は難しい人だけど女の子でそれが分かったのは、中々ないんだよ」という風におっしゃっていただきました。へえー、ま、受け売りですが。
「女の子が」というのは、傾向なのかもしれません。女性は情の性とか何とかって…。
まあしかし、学校の授業内容に関してやボランティアの広告などを見たときに、「私、ゼミに入る前より冷めたかも。」と思うことはこれまでにも少なくなかったのですが、この度は人様から指摘される形でリアリスティックな物の見方に強く共感していた自分に気づかされたという面白い体験をしました。

いやー、ヒューマニズムも大切ですよね!

Tokud


投稿者 学生
2008年07月03日19:59 [発表者 コメント] | コメント (2)


発表者コメント山本周五郎『樅の木は残った』

 発表者第一号ということで、私から書き始めることになり、若干緊張している。コメントの先例がなく、私の独断的な嗜好に基づき、以下に書き綴るが、コメントの形式については、今後、よい方向に向かっていくことに期待し、今回は、本作品を読み、思うところを述べたい。
 前回(6/24)、『樅の木は残った』を扱ったわけであるが、これは、江戸時代、伊達騒動(寛文事件)を題材としたもので、元来、悪人として扱われてきた原田甲斐について、独自の視点から考察を試み、小説化したもので、作品を一通り読み終えてみれば、その従来の人間像に異なった印象をもつこと間違いないだろう。やや時代劇の印象を持つ方もいるかもしれないが、そういったものが苦手な方でも、読みやすいものであるので、一度手にとることをお薦めしたい。
 では、本作品についての感想を若干述べたい。私も、あまり時代小説など見るほうではなく、正直、『樅ノ木は残った』を読み始めたときは、あまり面白みが感じられず、読む手が進まずにいた。ところが、だんだんと読み進めていくうちに、主人公甲斐に焦点が当てられ、その周辺で繰り広げられる人間ドラマやその心情に触れられ、そこに共感や反感、あるいは同情や憧憬といったものを見出すことができ、時には、感動させられる場面もある。さらに、タイトルにもなっている「樅」についても、この「樅ノ木」がどのようない位置づけがされているかなどあれこれ思案しながら読むこともでき、そして読み終えて、この「樅ノ木」について、あれこれ考えさせられたりもし、読み終えても何か心の中に余韻を残すような作品に感じられる。
 以上、作品について思うところを若干のことを述べたが、読む人により、また別の見方ができ、発見もできる作品であると思う。それゆえ、各自で実際に作品に触れてもらいたいし、それぞれの面白さを見出すことができたらと思う。
Nao

                 

投稿者 学生
2008年06月27日17:44 [発表者 コメント] | コメント (3)