青山学院大学国際政治経済学部
袴田茂樹ゼミ ブログ
トップ青山学院大学国際政治経済学部ブクログ  


携帯版はこちらの
QRコードからどうぞ

« 映画『12人の怒れる男』 | メイン | 袴田ゼミに興味を持たれる二年生の皆様へ2 »


谷崎潤一郎の香りなき美文にみる盲人への憧れと性的倒錯

発表で何をお話したか整理しようと思い、この場を借りておさらいさせていただきます。
谷崎潤一郎について「氏の特徴がよく表れている」という『春琴抄』と『陰翳礼讃』を元に発表させていただきました。今回は久しぶりで最後の文化部門ということと、先祖への興味が相俟って発表の準備を楽しませていただきました。
私たちゼミ生にとって、谷崎は「思想がない」、「香りがない」、「詩的精神がない」という小林秀雄や三島由紀夫や芥川龍之介による前評判に振り回されてもいましたが、地上の人間には正直その如何を嗅ぎわけることなどできず、ただただ氏の美文に魅せられてしまいました。その文体は三島にいわせるならば「上等なとろりとしたお酒の味わい」があるそうですが、ゼミ生の間でもその「艶っぽさ」や「なめらかさ」を共感するところがありました。氏の文体は泉鏡花の世界に類し、かたや志賀直哉や島崎藤村らの楷書的あるいは自然主義といわれるジャンルとは異なる様相を呈しているのではないでしょうか。この「なめらかさ」というのは氏が一種の憧れの念を抱いていた盲人に表象されていきます。常人の開いた目よりも春琴の閉じた瞼を「これでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じ」としてその外見的な艶やかさを賛美しています。こうしたイメージはH・G・ウェルズの『盲人国』にも次のように表れてきます。「(顔立ちのはっきりした女性をさして)彼女は盲人の世界ではあまり重んじられていなかった。というのは、彼女は輪郭のはっきりした顔立ちをしていて、盲人たちにとって女性美の理想であるあの快い艶々しい滑らかさがなかったからである」としています。洋の東西を問わずに見られる盲人賛歌は、こうして質感のみならずその欠落した感覚ゆえの才能への憧れにも表れていきます。谷崎の『盲目物語』では「ぜんたいめしいと申すものは、ひといちばいかんのうよいものでござります。――眼あきよりよく勝手をそらんじておりまして、まさかの時はねずみより自由にはしれます」と表現され、ウェルズは「彼らは12歩離れた人のちょっとした身振りでさえ、耳にし判断することができた」、というように盲人は研ぎ澄まされた感性の持ち主として描かれるのであります。また寺山修司の『盲人書簡』でも盲目あるいは闇が感性を刺激するものとして現出します。というように、見えないものに対してクリエイティビティを抱く彼らでありますが、谷崎においては性的倒錯がその根底にあるともいえるのではないでしょうか。たとえば『陰翳礼讃』における次のような記述、「いくら美人の玉のは肌でも、おへそや足を人前へ出しては失礼であると同じように、ああむき出しに明るくするのはあまりといえば無び千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる」、というのは彼のフェティシズムの表れとみえましょう。このような想像力をかきたてるようなイメージというものを三島は「文学からわれわれの受けるエロティックな感動は、いちおう頭脳を理性を通したもので、本質上観念的なものでありますから、文章からわれわれが直接の性感動を受けるというのではなく、観念的な性の刺激をうけるわけであります」として観念によって性的満足を覚えることについて言及しています。谷崎は『春~』『陰~』のみならず他作品の中にもさまざまな性的傾向、たとえば『刺青』にみるマゾヒズムとサディズム、『鍵』や『瘋癲老人日記』における老人性愛など描き分けているようにも思えました。そして最後に、谷崎の『陰翳礼讃』とロラン・バルトの『表徴の帝国』における日本の文化事象の描き方に関する差異を磯崎新さんの論稿から考えてみました。谷崎が生涯追い求めていたといわれている「日本的」なもの、というのとバルト的な視点で眺めた「日本的」なものとはまるで違ったようにも見えながら、あるがままの表れとしては同じであって、もっというならテクストとしての美しさというのも共通していたのではないでしょうか。  とまた手におえない相手をひっぱりだしてきて勝手な解釈をしてしまいました。もともと解釈というのは勝手なものですかね。
marcos

投稿者 学生
2008年10月10日02:23 [発表者 コメント] | コメント (0)

コメント

コメントしてください