2007年2月21日

Good Luck!


抱井尚子(教員)
カリフォルニア大学サンディエゴ校
在外研究中

身近な生活の中にマクロの社会を見る、これは前回の歯科医院での経験を報告した際のテーマでもありますが、今回はまた新たな日常生活の出来事からマクロの世界を垣間見たお話をさせていただきます。

こちら米国カリフォルニア州サンディエゴで生活を始めてから、私は早朝6時のラジオのニュースで目覚めることを習慣にしています。しかし、6時のニュースは決まって前日にイラクで命を落とした米国人兵士の人数の報告から始まります。すがすがしい朝の目覚めを妨げるようなこのニュースですが、今のところ私はこの習慣を変えてはいません。

多くの日本人にとって恐らくそうであるように、私にとってイラクの惨劇は、現在のところ現実味のない遠く離れた異国の地で起きている出来事です。私とイラクの現実をつなぐものは、毎朝ラジオから流れてくるニュースと、新聞の活字といったメディアが発信する情報が中心で、その悲惨な状況を憂うことはあっても、目頭が熱くなるような情動レベルでの揺さぶりを経験したことはありませんでした。少なくともこの日の夜までは。

バレンタイン・デーを数日に控えたこの日の夜、大学から自宅に戻ると、アパートの部屋のドアに留守のため未配達となった荷物が管理オフィスにあるというメッセージが貼ってありました。留守がちな私にはよくある日常茶飯事のことでした。私はいつものようにそのメッセージを携えてオフィスに向かいました。今回、唯一いつもと違っていたところは、管理オフィスのカウンターで、心にとどめておきたい出来事が待っていたことです。管理オフィスのカウンター前では、体格の良い30代くらいの二人の男性が会話をしていました。どうやら彼らも、留守中で未配達となった荷物をここに取りに来ていたようでした。二人のうち一人の男性は、どういうわけか乳母車を持参していました。恐らく、受け取る荷物が多そうだったので、それらを乳母車で運ぼうと思ったのでしょう。乳母車をもってきた男性が、もう一人の男性に、「ワシントンDC経由でバグダッドに入るんだ」と言っているのが聞こえてきました。「バグダッド」という音の響きに、思わず私は彼らの話しに耳をそばだててしまいました。「そうか...でも、出発がバレンタイン・デーの翌日でよかったな」と、もう一人の男性。すると乳母車をもった男性が、「いや、13日にはここ(サンディエゴ)を発つ。DCからバグダッドに向かうのがバレンタイン・デーの翌日だ。ワイフは既に....」と、男性。彼が奥さんについて言及した部分は、私には聞き取れませんでしたが、彼の脇にある乳母車と「ワイフ」ということばに、彼が妻帯者であり、小さな子供もいるようだということが容易に推察できました。彼が軍人で、バレンタイン・デーを待たずに妻と子供をここに残して、日々多くの米国軍人が命を落とすバグダッドに向かうと理解したとき、私の中で熱いものがこみ上げて来ました。会話を交わしていた一方の男性がこの男性に「グッドラック!」と声をかけました。「ありがとう」と返すこの軍人に、まったく彼とは無関係の私まで、思わず「グッドラック!」と声を掛けずにはいられませんでした。イラクの惨劇が、私にとって急に身近な出来事と感じられた一瞬でした。

また、米国人の彼に「グッドラック!」と声援を送ったときの私の頭の中には、自分が日本人であるという意識や、国家という概念は明らかにありませんでした。社会心理学に個人的アイデンティティと社会的アイデンティティという概念がありますが、このときの私には、国家や民族といった社会的アイデンティティはなく、同じアパートに住む一個人としての個人的アイデンティティしかなかったといえるでしょう。個人的アイデンティティは、文化、民族、宗教、国家といった社会的カテゴリーに限定されない対人コミュニケーションを促進しますが、社会的アイデンティティがネガティブに働く場合は、ステレオタイプ、偏見、差別といった、"We vs They"という対立構造をグループ間に生みやすくします。現に内戦状態と化した現在のイラクの混乱も、宗派間抗争という社会的アイデンティティと深く関連した現象といえます(余談ですが、日本においても2006年12月の教育基本法の改正により愛国心教育の重要性が盛り込まれることとなりましたが、これがグループ間対立を助長するようなマイナスの効果をもたらすことがないよう祈るばかりです)。

世界で起きているさまざまな出来事を認知のレベルだけで理解しようとするとき、私たちは最も大切なものを見失いがちにならないでしょうか。また、社会的アイデンティティに縛られることで、私たちは出来事の真っ只中にいる当事者たちが私たちと同じように愛する家族や友人をもち、私たちと同じように笑い、泣き、怒り、喜ぶ人間であるということを忘れてしまいがちではないでしょうか。ミクロのレンズを通してマクロの出来事を見ると、これまでとは違う世界が見えてくるはずです。何はともあれ、とにかく今は、今夜偶然出会った私の隣人が、無事にイラクから帰還できるよう祈るばかりです。




Category: from U.S.A
Posted by sipec at 12:06 | Comments (0) | TrackBack (0)

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